草遍路
隣家と境界線を接する狭い庭の一画が、思いがけず生い茂っているのに気が付き、昨日の朝イチで刈り込み作業をした。
中途覚醒は早朝覚醒になって、最近はもう明るくて二度寝も難しい…それなら隣人が動き出す前、日差しがキツくなる前に作業すればいいのでは…?
その思い付きを昨日実行した。
その狭いエリアは、前回草取りしたタイミングで防草シートを敷き詰めた。確か、夫を亡くした後。なので、草はそんなに生えていない。
出窓の下に、鳥が運んだらしい見知らぬ木が育ち、丁度日陰を作ってくれるのだが、それが繁り過ぎ、隣家の敷地に大きくはみ出すようになった。
台風の時は家の壁を叩くし、網戸を壊しそうなので、昨年やむなく根元近くから斬った。
腕位の太さだったが、夫が買った小型の折り畳み式鋸で斬ることが出来た。
私は安物買いの銭失いの典型で、なかなか高価な物に手が出ないが、夫は求める能力に見合う対価は支払う主義だったので、この鋸も軽くて使いやすく重宝してる。きっと高かったのだろうが、夫の見立てのおかげで今でも助かっている事が、他にも沢山ある。本当にありがとう。
木は流石にボリュームがあって、切り倒したはいいが、処分する為に分断する余力が、その時点で残っていなかった。
とりあえず、隣家にはみ出ない形にまで成形して、そのままその場へ寝かせて置いた。枯れて痩せてからなんとかしよう…と一旦保留にしたままで置いた。
気が付いたら、そのひこばえが元の高さ位まで伸び、再び生い茂っていた。
狭い場所に前回切り倒して放置していた主幹が、枯れつつシッカリ寝そべり行く手を阻む…まず手前の枯れ木を分解しながら、今回の目標までの道を拓かなくてはならない…
ふと、「草遍路」と言う言葉が浮かんだ。
花鋏と鋸でゴミ袋に入るサイズに分断して進みながら
「死した親が、屍になりながらも悪鬼から我が子を守らんと、立ちはだかっている…」
そんな風に思えた。
悪鬼は慈悲の心を押し殺して若いひこばえを刈り込んだ。
遍路とは程遠い旅だ…
ゴメンね…
それでも、夫がいつも気にしていた「近隣への迷惑」を排除する事が、夫への誠意だと思うから遂行出来て嬉しかった。
私自身は、草木のはみ出しくらいお互い様だし、気にしない質だが、仕事で人様の庭先を通る事が多かった夫は、他者への配慮に敏感だった、心を砕いていた。
その、他者への配慮に敏感な夫が、他者からの支援無しには生きていけない病に侵された。ALSは現在有効な治療法のない難病。
少しずつ自由を奪われ続けて回復しない。
その切なさを表現しなくても、きっと夫の中にも葛藤と嵐はあったのではないか…
介護ベッドに新しいエアマットを導入するに当たって、夫に一旦車イスに座っていて貰った。レンタルしたが夫は頑なに嫌がって、結局この時座っただけで、一度も利用する事なく返却した車イス…
あの時の、寂しそうな後ろ姿を今でも涙で思い浮かべる。
あの時も、あの時も、抱きしめて大丈夫だよって笑えば良かった…泣きながらでも笑えば良かった…
何度も思い返すからそう思えるんであって、あの時の私には、その時点での苦悩とその先の不安でいっぱいで、そこまでの余力が無かった事も承知している。
その時、何をしていても、最善を尽したと思えないだろう。後悔しても戻せないし、本人も望まないとしても…後悔は、多分私がしたくてしてるのだ。
それが供養になるとは全く思ってない。
この先で役に立つとも思ってない。
ただ、あの辛かった一瞬を何度も追体験して、夫の悲しみに近付きたいだけ…
まだまだ解っていないと自覚するから…
枝切りした日はとある寺を訪ねる計画を立てていた。
そこには地下に仏像が並んでいて、四国八十八ヶ所の札所を巡礼したのと同じ功徳が得られるとの話。
夫を喪って、遍路に出る名目は得られたが、行楽のように遍路旅に出る事には後ろめたさがある、本当に供養になると信じてもいないのに、自分を慰める為にする如何なる行為もすべきでないと思う自分がいる。
第一、そんなエネルギーがない。
その寺は、たまたまEND展で訪れた駅の近くにあるのだと、人から教えて貰った。
END展ももう一度見たいなと言う気持ちもあり、教えて貰った縁も含めて導きかな?と思った。
だか、体調もイマイチ、天気も怪しい…
それで予定を変更して、草刈りをしたのだが、四国八十八ヶ所巡るより、こうして草刈りした方が、夫は喜ぶ事が確信出来た。
夫が喜ぶ顔を思い浮かべながらの作業は、大変でもやり甲斐があった。一段落して清々しい気分にもなれた。
キチンとは出来ていないが、ソコは私の能力不足なので我慢してもらおう。
こうやって、夫の笑顔を思い起こせる事を、少しずつでも探してやっていこう。
それが供養という物になるかどうかは解らない、が、私の生きる甲斐、糧になる事は確かなので。
草遍路とは、野宿で遍路を続ける事、人を指す言葉だそうだ。
ドラマ『花へんろ』から連想した言葉だが、俗を捨て草をかき分け、信仰に近付こうとつとめる者を、他者は聖と呼んだり乞食と呼んだりして、畏れ、恐れる。
『花へんろ』の作者、早坂暁は、私の父の死の翌月急逝されていた。
エッセイ『この世の景色』を昨日注文した。