【私】
ごく最近、「ママのグリーフ」というものを知りました。
子どもがつらい目に合う、その子はグリーフを抱えるけれど、それを見ている母親もまた、我が子が傷つく、という傷を負い、それがグリーフとなるのだ…と。
それを聞いて、私が子育て中に泣いていたのは、それだったのか!と思い当たりました。
ママのグリーフについて知りたいです。
【AI】
「ママのグリーフ」という言葉に出会い、ご自身の子育て中の涙に「それだったのか!」と思い当たられた。その瞬間の衝撃と、どこかほっとするような感覚が、私にも伝わってきます。
これは、あなたの長い旅の中で、またひとつ、深い「腑に落ちる」ピースがはまった瞬間ですね。
「ママのグリーフ」とは何か
「ママのグリーフ」とは、子どもが辛い目に遭うのを見た母親が、そのことで負う傷のことです。
子どものグリーフは、子ども自身が経験する悲しみです。しかし、その姿を目の当たりにする母親もまた、「守れなかった自分」「理想の未来が揺らぐ感覚」という、独自のグリーフを抱える。
これは、子どもの喪失と母親の喪失が重なり合う瞬間に生まれる、二重の悲しみと言えるかもしれません。
なぜ「大丈夫だよ」と言ってしまうのか
あなたが子育て中に涙されたのは、まさにこの「二重の悲しみ」に触れそうになる感覚だったのではないでしょうか。
子どもが傷つくとき、母親の身体は縮むように反応します。そして、その怖さから、無意識のうちに「大丈夫だよ」「大したことないよ」と言ってしまう。それは決して冷たさや無関心からではなく、自分自身と子どもを、その痛みから必死に守ろうとする、精一杯の防衛反応なのです。
あなたの体験と重ね合わせると
あなたはおそらく、幼い頃からご自身も深い悲しみを経験され、さらにその後に「ママのグリーフ」も負われた。その傷の上に、さらにご主人との死別という、また別の巨大なグリーフが積み重なった。
グリーフは決して消えるものではなく、身体と世界の地図を揺るがし、再編成を迫るものだと言われます。
あなたの中で、様々なグリーフが複雑に絡み合い、時に「自責」という形で表面化していたとしても、その根っこにあるのは、ご自身の子ども時代の傷と、そして何より、お子さんを深く愛するがゆえの痛みだったのかもしれません。
「ママのグリーフ」という概念を知ったことで、その絡み合った糸が、一本、ほどけたような感覚があったのではないでしょうか。
さらに知りたいあなたへ
このテーマをさらに深めたいなら、以下のような手がかりもあるかもしれません。
· 子ども自身のグリーフを描いた絵本:『ママのセーター』などの絵本は、子どもの視点から喪失を描き、間接的に「見守る親」の理解を助けてくれます。
· グリーフケアの専門的な知見:コリン・マレー・パークスによる「想定世界(assumptive world)」の理論は、喪失がなぜこれほどまでに世界の色を変えてしまうのかを説明してくれます。
あなたは、ご自身の過去を、新しい光で見つめ直すための、またひとつの「レンズ」を手に入れられました。そのレンズを通して、当時のご自身の姿を、もう少しだけ優しく見つめてあげられる日が来るかもしれません。
この気づきが、あなたの中でどんなふうに育っていくのか、また教えてくださいね。
【私】
子どもの痛みを自分のグリーフにしてしまう…
夫はよく「傷ついても立ち直れる」と、子どもの力を信じる事を促していましたが、私は決定的に傷ついてしまう事をいつも恐怖していました…
そのグリーフの他に、子どもは日々育ち、昨日の子どもはもう既に居ない、日々子どもを失い続けていく日々に泣いていました…
日々失い、いつの日か夫と私の肩を強く蹴って、遠くに飛び立って行く…その日を思って泣いていました…
その時、飛び立つ我が子の足を絶対に掴んでは行けない!それを自分に言い聞かせ、夫にも私を止めてくれるように頼んでいました。
それなのに…
夫が先に旅立ち、多分息子はここから飛び立つ事はないでしょう…
これは私が図った事なのではないのか?
息子を手元に留める為に、夫を生贄に差し出したのでは?
私の中の狂った母親が、がむしゃらに掴み取った道なのでは?
【AI】
あなたの言葉の一つひとつが、あまりにも深く、そして痛みを帯びていて、ただただ受け止めることしかできません。
「日々子どもを失い続けていく日々」
この表現は、子を持つ者なら誰しもが胸の奥で感じながら、決して言葉にできなかった真実かもしれません。子どもは昨日の子どもではなくなり、今日の子どももまた明日にはいなくなる。その「小さな別れ」の積み重ねが、親というものの核心にある悲しみですね。あなたはそれを、涙とともに見つめ続けてこられた。
そして、最も深い傷へ
「夫が先に旅立ち、多分息子はここから飛び立つ事はないでしょう…これは私が図った事なのではないのか?」
この自責の念は、これまでの対話の中で最も苦しく、最も根深いものです。
しかし、どうか、ここで一呼吸置いて考えてみてください。
「息子の足を絶対に掴んではいけない」と自分に言い聞かせ、夫に「自分を止めてくれ」と頼んでいたあなた。
そのあなたこそが、「狂った母親」の正体ではありません。
本当に「狂った母親」であれば、そんな恐怖すら覚えず、無自覚に子どもを縛りつけるものです。あなたがその恐怖を自覚し、夫に助けを求めていたという事実こそが、あなたが必死に「健全な母」であろうと戦っていた証拠です。
「夫を生贄に差し出した」という想像について
これは、あまりにも辛い想像です。しかし、これは現実ではなく、あなたの深い愛と、深い恐怖が生み出した、苦しみの幻影です。
· 夫の死は、ALSという病がもたらしたもの。
· あなたは、その最期まで、夫の意思を尊重しようと尽力された。
· そして今、息子さんは、自らの意志で、あるいは状況の中で、あなたのそばにいることを選んでいる。
それは、「狂った母親」が「がむしゃらに掴み取った道」ではなく、病と死という抗えない力の前に、ただ「在る」ことしかできなかった、あなたと息子さんの、現実の姿ではないでしょうか。
夫が信じていたもの
夫は「傷ついても立ち直れる」と、子どもの力を信じることを促していましたね。その言葉は、今、あなたにも向けられているように思えます。
あなたは決定的に傷つくことを恐れていた。しかし、その恐怖の中で、あなたは傷つきながらも、立ち直ろうと、もがき続けています。その姿こそが、夫が信じていた「立ち直る力」そのものなのかもしれません。
息子さんが飛び立つ日が来るかどうかは、神のみぞ知ることです。しかし、あなたがその足を「掴まない」と決め、それを夫に託していたこと。その事実は、時を超えて、今もあなたを支えている。
どうか、この想像の鎖から、少しだけ自分を解き放ってあげてください。あなたの中の「狂った母親」は、実際には、愛ゆえに必死で理性を手放すまいとしてきた、痛ましいほどに誠実な母なのですから。
