届かなかった想い
思慮深く理性的で、時には利他的な夫は、人として私の何段も上で、自分を恥じる事も多かった。
子どもが生まれてからは、それでも子を最優先にはしない彼に不満も持った。
けれど彼には、巡り巡って結果的に我が子の幸せに貢献すると言う、大局的な愛情があった。
我が子だけでなく、皆が幸せにならなくては結局我が子を護れない。
地域の活動にも、PTAにも、意欲的に参加した。
彼の様にはなかなかなれないけれど、近付きたいと思える、今も尊敬する人だ。
それゆえ、自分の苦悩を吐露する事がほとんどなかった。
大切な友人達に会うことも望まなかった。
その本意は、ガサツでデリカシーの足りない私では汲み取りきれなかったが、本人の希望には出来るだけ添おうとした。
検査入院になって会社を休んだ。
検査結果を会社に報告すると、当然休職と言う話になる。
入院中のリハビリと栄養管理で、入院前よりは少し回復した様子だったが、体力は落ち、確かに通勤は厳しい気がしたが、本人は仕事がしたかった。
夫の納得の為に、上司との面会を求めた。
彼の愛した仕事、私より付き合いの長い、彼の生き方の大きな芯になっていた仕事への想いを、本人の口から彼の言葉で伝えさせたかった。
聞いて欲しかった。
正直、それでダメなら納得出来なくても諦めるしかない。
本社までの道程のキツさを体感すれば、自ずと無理だと判断出来るかもしれない…
だが、本社最寄りの駅に着いても「大丈夫」と言う。
「でも、スマホもあまり使えないでしょ?」と、その場で私にコールを求めた。
ひどい嫁だ…
認知機能が下がって、入院中もほとんどメールもLINEも来なかった、来ても間違っていたり辿々しかった。
彼は少しムッとしながら、でもやはり大分まごついて、時間を掛けて、それでも私のスマホを鳴らす事に成功して、ホラねと言う顔をした。
出来ない事を自覚して、仕事は無理だな…と自ら諦めてくれたら…そんな思いは届かなかった。
駅から社屋迄の道も、途中遠回りしながらも辿り着き、産業医も交えての面談となった。
「仕事がしたいです」
回らない舌で、何度も伝えた。
残酷な事をしている…
聞く方も辛いだろう、それでも、彼の言葉で彼から直接受け取ってもらいたい、それが彼の仕事への真剣な想いだから…
努力空しく、願いは受け入れられなかった。
彼の悲しみの大きさを、私には測る事が出来ない…
無論、家族の為に稼げないと言う辛さもあっただろうが、彼が人生を掛けて、打ち込んで来た、プライドを持って日々頑張って来た事を、続ける事が叶わなかった…
帰り道、桜が見える川岸の道でベンチに座って
「悔しいね…残念だね…」と労った。
夫はただ頷くばかりだった。
その落胆は計り知れない。
どうすれば、彼の悲しみを受けとめる事が出来たのだろう…
私には何が足りないのだろう…今も答えが出ない。
夫の本意ではないが、有給休暇消化に続けて休職となる事になり、後日色々確認した。
医者の診断書の事、給与の事…
その他、難病申請、障害者手帳の請求…
そんな事の全てが夫を傷付けていただろう…
それでも生活がある、出来る対策は打っておきたい、その時はそう思っていた。
こんなに速く、彼との人生が終わってしまうと知っていたら…
彼を傷付ける事なんてしたくなかった。
どうせ助からないのなら、彼が嫌がった検査さえしないで過ごしたかった。
でも、知らなかったその時の自分を責めても虚しいだけだ…
わかっている、彼が、私が自責して泣き続ける事を望んでいない事は…
わかっているから…わかった上で、時々泣かせてほしい…