唐突にわかった事がある。
病に伏した夫の枕元で、私は本当は「行っては嫌だ、私はどうすればいいの?」と泣きぐずりたかったのだ、と。
実際にはそんな駄々捏ねをして、これ以上夫を追い詰めるなんて出来なかった。
精一杯の演技。
「大丈夫、なんて事ない」そのように振る舞う事が、こんなにも辛い現実の中にいる夫を支える事だと思ってた。
いや、それ以前に私には悲しむ資格がないと思った。
夫の生きるエネルギーを削ぎ、病にしたのは、「死にたい」と繰り返した私だから。
自分の悲しさ寂しさは当然の報いで、夫の、己の人生を喪う無念さの前では取るに足りない、傷でさえないと思った。
感じないようにした。
罪人である自分を許せない…罰したい…
自分を突き刺し続けるうちに、奥底で泣いている自分を見つけた。
震える小さな子どもの私。
幼すぎる、それも罪…
居ないと思った、居てはいけないと押し殺した、夫に依存した幼すぎる自分…
この子が泣くことを許す事が、自分を愛する事になるのだろうか?
そうする事で、悲しみを悲しむ事が出来るのか?
「置いて行かないで」と震えて泣く私の頭を、いつものようにポンポンと撫でている夫のイメージが浮かんだ。
出来なかったけど…そうしてはダメだと思ったけど、そうすれば良かったのだろうか…?
それでも薄っぺらい演技など見透かされていて、あの時も、あの時も、本当は夫は私の頭を撫でていたのだろうか…
迷子になる妻がわかっていて、心配して、道標を立てただろうか…それを私は正しく見つけられるだろうか、この先も…
どうかさいごまで、手を取って導いてね?
さいごに言いたそうにして、言葉にならずに息を引き取ったその言葉、私がすくい取れなかったあの時の言葉は、私がそっちに行く時、ちゃんと教えてね。
「忘れちゃったよ」いつものように笑うのかな…?