Mosquitoes regret

喪失と自責の記

ユマニスム

夫との死別以前、父を施設に一人置いて、生きる事、死ぬ事、介護と言う事について夢遊するように頼り縋れる何かを探して彷徨って、本を読み、話を聞き、心に残りながら確かには理解する事が出来ずに今日まで来た言葉の1つが「ユマニチュード」だった。

昨日もTwitterでその事をコメントした。

そして今日、読み始めた『恢復する家族』の中で、正しくその言葉と出会った。


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「ジャスト・ミート」とタイトルされた20ページの中で、「ユマニスム」「ユマニスト」と言う言葉が現れた。

これが、大江健三郎氏言う所の「ジャスト・ミート」、私たちACが使う「シンクロニシティ」と同じ意味と思ってもいいのだろうか…「なにものか人間を超えた存在が、われわれ人間をつうじて」現される偶然。

ユマニスムを検索して、ヒューマニズムの語源となった言葉だと知り、やっと腑に落ちた。

「絶望しすぎず、希望をもちすぎず」人々の苦しみに対処する…それは仏教で言う「中道」にも似てるのか?

理想や悲観に振り切らず、目の前の生の人間に誠実に向き合う…と言う解釈でいいのだろうか…?


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夫との闘病は、絶望と奇跡を信じたい気持ち、その両方に揺すぶられ、時に楽観し今も後悔が残っている。

そう言う自分を俯瞰して、自覚的にその道を歩けたなら、こんなにも自責に苛まれなかったのだろうか?

とても難しそう…だが、それが出来たら…

心に留め置いて行こう。

今、私がこの本を読んでいる事が「ジャスト・ミート」であるなら、この先にも正しく繋げて、行くべき場所に辿り着きたい。