伴侶を喪っての哀しみにもいろいろあるな…
amazonのカゴに入れて「今回は買わない」と出した物を削除してなかった物を手繰って、夫の闘病にアレコレ悩んで入れたり出したりした高カロリーゼリーやとろみ剤、スプーン等などを引き出して、あの頃の自分に再会すると、今は穏やかだな…と、その頃の私と夫に静かに寄り添い、涙を流す。
夫の病は進行するだけで治らない。
「生きてさえいてくれれば…」と言う時は自分のエゴと真正面に向き合う事、私には「大丈夫!それでも君を悲しませない!」と言う覚悟が、自信がなかった。
胃瘻をしない…と言う選択を本人にさせてしまった。
それは遠くない先で去る…と言う選択…
もう取り返せない、あの時私にもっといい手があったのか、私こそが夫が去る事を望んだのではないのか…
私の為に…
私は、今現在の伴侶が居ない現実、支え手としての夫を喪った哀しみは許容範囲なのだ。
むしろもっと苦しむべきだとも思う。
それよりもあの頃の…あの時に繋がった全ての過去に、私の不徳が影を挿してると言う思いがのしかかるのだ。
私は哀しみも苦しみも手放したくはない。
夫を死なせて罰せられない…と言う罰を受けてる。
だからチャンスを見付けて自分を罰したい、突き刺して痛め付けたい…
そう言う自分は歪で、夫は望んでないと知ってる…
今、行ってるお寺さんのグリーフでは
「それでいい」
と言ってくれる。
いびつに歪む自傷でもいい、だから自分をダメだと思わないで、と。
それは想いがあるからだ…と。
私は赦されたかったのだな…
自分を許せない異形の自分を…
別のグリーフで他の参加者が大きく頷いてた「電球💡替えるのも、買物でロールペーパー持つのも自分なのが辛い…」と言うエピソードには共感出来なかった、羨ましいな…と思うけど、そんな事してくれなくても私は夫を大切に思ってる。今も。
夫を想う気持ちと、自分を許せない気持ちの2本立てグリーフなのだ。
混ぜたり片方無くしたりしなくて良い…と言われて心底ホッとしてるのだ。
そしてそんな事は
「それでいい」
なんて事は、どんな資格を持ってる心理士やカウンセラーにも言えない。言われても鼻白む…
後ろ盾に長い歴史のある仏様が居る、それを信仰してる人にしか言えないだろうと思う。
と言って、信徒でもないし、寄附もしない、ただの民草ですが…