私は夫に「貴方が必要だ」と伝えられただろうか…
愛する職場からも距離を置かれ、どんなに無念だったろう、でも一番大切なのは家族だと貴方は言ってくれた、その妻と息子は貴方を大切に出来たのかな?
貴方無しで私がどうなるかは貴方にはわかってたよね、あんなにいつも泣いてたから…
そうだね…きっと「私の為に」とせがんでも、貴方は胃瘻も呼吸機も固辞したんだろうね…例え認知機能に衰えがあったとしても聡明な貴方、信念は通す人だから…
私がそれを選ばせた…と自責する事は貴方には屈辱かも知れない、けど、消し去れない事を許して欲しい、私もせめて共犯で居させて欲しい…
ここの所、いろんな所へ出掛けてる。
『死』につて『生』について、学びたくて知りたくてジタバタと足掻いてる藻掻いてる、そうしてないと息が出来ない、貴方に近付きたい解りたい…
その事に近付く事は、痛みがある。
だからこそ近付きたい、自分を罰するチャンスだから。
それなのに、打ちのめされずに何某か宝石をもぎ取って帰って来てしまう…本能的自己防衛なのだろう…
貴方は生き切った。
見事だった。
その事を私は忘れないし、誇りに思うよ。
なんてスゴイ人なんだ。
そんな人と最後まで居られて幸せだし、これからも一緒に居てね。
昨日のシブヤ大学『死の学校』で、話を聞いた。
病院での死が7〜8割、多くの人が自宅での最期を望むが叶うのは老人ホームを含めても2割…
講師は施設での自然な看取り推奨で、頻りに「老衰」と言う言葉を使ったけど、たいていの老人は何某か病を持ってる、その事を聞いたらやはり痛みのある人、医療行為の必要な人は施設では受け入れられない、と。
その為にホスピスがあり、医療行為を受けながら緩和を目指す…けれども基本癌患者のみで、それさえ受け入れが間に合っていないと言う。
気になってググったら『老衰』で亡くなるのは8〜9%…
夫は病気だったけど、感覚としては急激な老化に近かった。
家で、医療介入なしに逝った夫は、死に方としては非情にラッキーだったのかも知れない…
死にたくはなかったし、死んで欲しくなかったからラッキーは違うかも知れないけど、せめてもの計らいなのか…その瞬間に私を立ち会わせてくれた、目と目を合わせて、何か言いたそうにして…
何が言いたかった?
私が心配だったよね…
ごめんね、ダメダメな妻で…
どこかで誰かが言ってくれた「見送る時は何もしなくていい、ただ居ればいい」
それは出来たから、随分慰められたけど…
読んでた本では「人の生死のありのままの姿を見て若い人は「人間であること」を学ぶ。たんに生者からだけでなく、死者からも学ぶ事ができる」と…
身体がなくたって、貴方は生き続けている。
私が人生から求められているものがあるとすれば、貴方の息子を護る事…
そして貴方の様に死んで行く事でしょう。
昨日は父の日だったの?
ありがとうね、貴方。