Mosquitoes regret

喪失と自責の記

シンクロニシティ

昨日、注文した本がもう届いた。

以前、朗読ボランティアでお預かりしたのは、この文庫の発行前に刊行された単行本だったのだろう。

単行本1995年2月刊行、

文庫本1998年第一刷発行となっている。
f:id:kazanea:20211117170926j:image

手軽な文庫で探したが、新品が見つからず古本を取り寄せたのだが、そのリストの中に夫の職場と関係のある店が表示された。

単なる偶然だが、動揺した。

夫の、仕事に対する強い想いを、こんな所でまで感じさせられた。

シンクロニシティと言う言葉が浮かぶ。

これも何かの因縁かと、その本屋から購入した。

今、その本を手にして複雑な気持ちでいる。

 

この本を、かつて私は本当に読みあげたのだろうか…

主役とも言える、光さんは私と同い年。

『三歳のときすでにベートーヴェンショパンに敏感に反応し…』と、本の後面に紹介されている。

3歳の時、私たち一家は6畳一間風呂無しトイレ共同のアパートに暮らしていた。

その環境の落差を、当時の私も僻んだだろうか…

これから読んで行こうと思う。

まとまった文章が久しく読めなくなっているから、挫折するかもしれない。


f:id:kazanea:20211117180005j:image

あの頃、仕事を続けられなくなって辞めたけれど、夫は働けるうちは働いた方が良いと考えていたから、大した家事でもないのに家に居る事が後ろめたく、せめてもの言い訳のように朗読ボランティアを始めたのだ。

朗読ボランティアを始めた事、依頼されたのが大江健三郎の本だった事、依頼者が身体が動かない男性である事、皆、夫に話したはずだ。

その時、そんな辛い病気の人も居るのだと知ったのに、私は呑気に時間を浪費して…いや…それなりに必死で子を育てて来たのだけれど、いつの間にか記憶の奥底に沈めてしまっていたのだ…

 

夫が不治の難病になると言う、信じ難い現実に突き当たるなんて、欠片も思わなかった…

その薄情さへの罰なのか…

私が引き寄せたのか…

私がすべき事を怠ったから、夫に病を与えたのか…

そんなの酷い…

私じゃなく、夫に謝って欲しい!

罰なら私に下せばいい!

 

この本で何かを学べるだろうか…

何かを思い出せるだろうか…

 

回復、恢復

回復とは?

私はどの状態を目指して治療を受けているのだろう…

夫との死別から繋がった精神科だが、Dr.が指摘した様に私の鬱はもっと以前からのもので、一体いつまで遡れば健康で戻りたい自分に辿り着けるのだろう…


f:id:kazanea:20211116110613j:image

ふと、

結婚して仕事を辞めた後、朗読ボランティアをしていた事を思い出した。

市で募集していたので問い合わせると、何の資格も講習も必要なく、依頼者の希望する本を自宅で読み上げて録音したテープを送り返すと言うもので、完全な無給ボランティアだと言う。

本とテープは依頼者から直接送られ、返送も直接だったと思う。

私に割当てられた依頼者は…

そこまで思い出して、息が止まった。

病名は定かに思い出せないが、筋肉がだんだん動かなくなる病で、既に寝たきりと言う男性だった…

この事が、今まで記憶の表面に上がって来なかった事は、私が無意識に回避して来たのか、それとも夫と関連付ける事が単純に多忙で出来なったからか…

仮にAさんとする、その当時の依頼者の病状を、私はどう思ったか…

ド素人の私なんかでいいのだろうか…声は低くて滑舌も悪い、漢字を間違えて読んでいたりして、申し訳ない気持ちだったが、「低い声が聞きやすい、間違えて読んでいる箇所は、以前読んでいた本なので大体分かるから大丈夫」と、続けて依頼された。

本とテープに同封してやり取りした手紙が、多分何処かには残っている筈だが、引っ越して市が変わり、すぐに妊娠した事もあって、ボランティアを辞めた。

ご家族からの手紙で、妊娠を祝う言葉を頂いたはずだ。

Aさんとご家族は、その後どうされただろう…

時折思い出しはしたが、出産から続いた嵐の様な気持ちの荒波に流されて、気が付いたら随分遠い所に来てしまった…

夫の診断、闘病の時期に思い出せたら、連絡を取っていただろうか…

いや、あの後のAさんがどうなったか恐ろしくて聞けなかっただろう…

今なら?

以前頂いた手紙を探してみようか…

私の戻りたい回復とは、その辺りだろうか?

まだ、子を持たない、この先どんな未来があるのか知らないあの頃の私も、決して夢に胸を膨らませてた訳じゃないけれど、一緒に歩いてくれる夫を得て、心強かった。

今も、未来が見えないのは同じだが、寄り添ってくれた夫を喪った…

飛び立たせなければならないと覚悟して来た息子への、足枷になってしまうのでは…と言う忸怩たる思いと、一緒に居てくれる事への感謝…

 

そして、Aさんに依頼された本が大江健三郎の『恢復する家族』だった事を思い出し、読み上げたのに内容を覚えていない事にあ然とする…

恢復が読めずにほんぷくと読み上げていた事は覚えているのに…

今、amazonで注文した。

今はこうしてネットで、思い立ったらすぐ先へ進める。

kindle版を購入すれば、読み上げソフト等で人の手を借りなくても読みたい本も読めるのかも知れない。

本当に便利になった…

思い付いて、今住む市の朗読ボランティアを調べてみた。

引っ越して来た当初にも調べたが、やはり講習が必須となっていて、かなり厳しい。

自治体によって色々だが、今はIT化とSNS等のコミュニケーションツールの発達で、個人的に読んで欲しい本を読んでくれる人を探す事も随分楽になったのではないかと思う。

確固たる責任感と使命感なくボランティアをするよりは、朗読サークル等を探す方が私には適しているかも知れない。


f:id:kazanea:20211116110727j:image

今はまだ、迂闊に動く事は控えたい。

そして、Aさんが選んだ本が大江健三郎のその本、知的障害を持って生まれた我が子との日々を綴った本だった事、その息子さん光さんが私と同い年であった事、私自身が高校時代『兎の眼』を読んで障害児教育に関心を寄せた事(その道に進む事は実現はしなかった)夫がAさんと似た病になった事…それらに何かの意味があるのか…少し落ち着いて考えてみたい。

 

 

 

 

 

家族旅行

熱海の温泉に一泊して来た。

コロナ禍で遠出自体が久しぶり…泊りがけでは何年ぶりだろうか…

コロナ禍がなくても、夫の闘病が始まり、それどころではなくなったけれど、動けるうちにどこかに家族旅行を…と言う気持ちはあった。

しかし、筋力が落ち、気力も落ちた夫には出掛けたい意欲が削げ落ちていて、本人の望まない旅に、無理矢理思い出作りの様に連れ出す決断が私には出来なかった。

それでも行けば「行って良かった」と、後々思っただろうか…

夫は無理矢理にでも連れ出して欲しかっただろうか…私達が大変だろうと遠慮したのだろうか…

夫はフラッと計画なく旅に出る事が好きだった。

海外にも一人で何度か行っていた様だ。

そんな夫でも、いや、だからこそ思い通りに動けない旅は、彼が望むものではもはやなかったかも知れない…

 

息子は、社会人になってボーナスでどこかに連れて行きたいと言う気持ちが、ずっと燻っているのは感じていた。

自家用車がないので、家族揃って出掛ける時は公共交通機関かレンタカー、車に酔いやすい息子を連れてあまり遠出はして来なかった。

泊まり掛けで家族旅行に、さいごに行ったのはいつだったろう…父の葬儀の帰りに、途中の温泉に泊まった時か…もう4年前…

 

夫はアトピー持ちだったので、温泉をあまり楽しめなかった。入浴後の肌ケアの必要があるので、自宅が一番寛げる様だから、日帰り温泉スーパー銭湯にも、息子と私二人で行く事が多かった。

 

熱海には家族で泊まりに来た事がある。

今回は違う宿にしたが、海に面した部屋から、夫の位牌と一緒に朝日が昇るのを見る事が出来た。

いつかまた、親子3人で泊まったあの宿にも泊まりに行きたい…


f:id:kazanea:20211114084330j:image

熱海には日帰りで遊びにも行った。

いつだったか…幼稚園の息子のお気に入りのTV番組の録画予約を、お出掛け準備の慌ただしさで忘れてしまった事を、現地で思い出して、息子に伝えたら、その場にしゃがみ込んで泣き出し「帰る!」と言い出した。

泊まろうかと言う話になっていたので、夫は呆れてしまったが、私は、息子が、その番組を彼の世界の中心に据えていた事を知っていたので、録画を忘れた自責もあり、帰る事に賛同したのを覚えている。

こんな時、番組の録画を頼める友達が居ない自分をも自責した…

 

熱海には、独身時代にもなんども来ていた。

今回初めて初島に渡ってみた。

風が強く、白波が立っていたが、高速艇は23分で島に着いた。


f:id:kazanea:20211114090739j:image

 

全ての旅程を夫も同行したと思っている。

帰路につく前に、駅前で見つけたクラフト体験に飛び込みで挑戦した。

左のボトルは息子が、真ん中のステンドグラスは私が、初めてチャレンジした作品。(右のボトルは既製品)

f:id:kazanea:20211114075158j:image

夫の写真のフレームに出来たらいいと思った。

飛び込みにもかかわらず、丁寧に指導して頂けて、是非また訪れたい場所になったクラフト工房さん。

https://www.atami-craft.jp/

子育て不安→自助グループへ

まず、子どもを死なせない事。

生まれた翌日死んだ弟2の影が過る…

新生児の死因は不明な事が多いらしい。

母は生まれた直後の弟2の顔を見たきり、亡骸には会わせてもらえなかった、当時は母親のメンタルに配慮して会わせないのが一般的だった様だが、母は出続ける母乳を泣きながら絞って「絶対に落としたのだ!あんなに元気できれいな顔をしてたのに、写真の額のアザは落とされて付いたに違いない!」とずっと言っていた。

主治医の居ない休日、若い医師しか居なかったことも病院への不信を募らせた。


f:id:kazanea:20211031170118j:image

赤ん坊が元気に生まれる事は、普通な事では無い。

私は妊娠がわかった時、絶対に「五体満足」を祈らないと決めていた。

身体に欠落や異常を持っていても、知的ハンデがあっても、私はこの子を育てる、その覚悟なく子を望んではいけないと思っていた。

定期健診で特に何も問題はなくても、ルンルンな気持ちからは遠かった。

 

何しろ弟2は死んでいる。

 

生まれた子に、当座の障害がみられなかったのは、たまたまそうだっただけだ。

ほんの気持ちだけ、ナースセンターにあったおぎゃー献金http://www.ogyaa.or.jp/)の箱に投入した。

 

家に戻ってもおっぱいのルーティンは変わらない、3時間ごとの授乳の為に夫とは別の部屋で過ごした。仕事に差し障ると思ったから。

 

今振り返れば些細な事で心配して気持ちを削った、皆が通る道だったとわかる。

でも、私には全てが初めての事で、上手に出来ないのは当たり前、大丈夫…とは思えなかった。

弟たちは大丈夫でなかった。

 

私には子どもが光輝いて見えた。

無垢で善なる物の象徴の様に、穢れた私を無惨に照らし炙る…

この前に己のみすぼらしい姿を晒す事が耐えられない痛みとなった。

まともに顔を合わせられなかった。

それでいて全てを要求する神に怒りも抱いた。

私が欲しかったものを、当然の様に私から搾取して行く。

 

私がしたかったんじゃない!欲しかったんだ!

暴れるインナーチャイルドを押さえる為に、私は自助グループに参加した。

 

夫は私の恐怖を、共感は出来ないが理解する、と言って支えてくれた。

私にはその頃の破裂しそうな焦燥感に怯えているばかりな記憶しかない。


f:id:kazanea:20211031170007j:image

子が育ってから夫に「あの頃オレも仕事が忙しくて帰りが遅くて悪かったな…」と言ってもらったが、そんな記憶もない。

ただ、月2回土曜日の自助グループに、一度だけ夫の仕事が被り、ギリギリ20〜30分帰宅が間に合わず、子をひとり置いて先に出る事になった時、その間に何か起きて、取り返しのつかない事が起きるのではないか…本当に恐ろしくて気が狂いそうで、その時は夫を恨んだ。

そこまでしても自助グループに参加する事は、私にとっては命綱だったから、欠席はしたくなかったのだ。

 

其処でしか出逢えない仲間、アノニマス(匿名)での会なので、どこの誰だかわからないが、同じ苦しみに身を割かれて泣く仲間との、いくつもの夜があったから、なんとか子育て期を渡りきれた。

自分ひとりじゃない…と知る事のありがたさ。

虐待が話題になる世の中で、おおっぴらに公示出来ず、それでもなんとか糸を手繰って、一緒に泣いた彼女たち、きっともう二度と会えないだろう…

それぞれの幸せを祈る…

 

 

 

 

 

 

 

1番の苦しみ

ここまでの人生で最大の苦しみは夫の病と死だった。

この先、これを越える苦しみがあるとしたら…子を喪うことだろうか…

そう思っていた、が、違う。

子が、誰かに陰湿にいじめられる…

多分、これが私に取っての最大のダメージだろう。


f:id:kazanea:20211110173119j:image

子はもう成人、だけど大人の社会にだっていじめはある。

より巧妙で威力のある攻撃を仕掛けて来るのは、頭のいい人間だから、その対応は難しいだろう。

私の保護下にいない成人の息子を、どうやって護ればいいだろう…

今は同居して話もするから安心だが、もし何かトラブルに巻き込まれた時に、それを察知して適切なフォローが出来るだろうか…

夫が居てくれれば…

視野が広く冷静な彼が居てくれたから、ここまでやって来れた。

子が幼稚園の時も、小学校の時も、私は自分の中で猛り狂う野生の母性に翻弄された。

どこかで、何かが僅かにずれていたら、私は簡単に犯罪者になっていたと自覚する。

自分の子を害する者の喉笛に喰らいつく自分をイメージ出来る。

運良くその時代を乗り切れたのは、夫が一緒に子に関わってくれたから。

イベントは極力休みを取って、PTA活動にも積極的に協力した。

私は学校だけで擦り切れてボロボロで、塾や校外スポーツ等を本人がやらないと言うのを感謝した。

あの頃はまだ未成年で、守るのが親の使命だったし、自分の過剰な反応にも意味はあったと言い訳出来るが、夫と言う社会的ものさしとストッパー、そして安定剤を失った私が、狂わないように、夫はこのタイミングまで私の側に居てくれたのかも知れない…

どうかその采配を無駄にせず、この先の子の人生の平安なる事を祈るばかりだ…


f:id:kazanea:20211110173350j:image

荷物

夫はバイク乗りだった。

私は原付バイクで通勤していた事はあったが、大きいバイクの後ろに乗るのは初めてだった。

まして後ろに乗せたことなどない、最初はわからず、運転する夫にしがみついたが、どうやって乗るのが運転しやすいのか尋ねた。

「しがみついても、サイドバーやベルトを掴んでも、怖くない様に、安定する方法で。荷物になったつもりで、任せて乗っかってて欲しい。カーブでは運転者に合わせて体重移動して」

荷物になったつもりで…

大きなトラックの横をすり抜けたり、怖いと感じる場面では、変に体が反応しないように、運転に差し障らないように、私は目を瞑った。

夫の体重移動に息を合わせた、荷物になったつもりで。

 

1人の時にコケた事はあったが、私や息子を乗せて事故った事はなかった。


f:id:kazanea:20211109154845j:image

若年性認知症と診断されて、仕事では車を降りた。

バイクも諦めねばならないだろう…

まだALSの診断前だった、夫はいつもメンテナンスでお世話になっているバイクショップへ、オイル交換に行くと言う。

まだ、大丈夫と思いたい、でも…万が一…

私はバイクを回す夫に「もう、やめた方がいいんじゃない?」声を掛けた…

その時の眼差しが、初めて見る怒りの色をしていたのを忘れない…

何も言わす、バイクを道に出した所で、多分もうALSによる筋力低下が始まっていたのだろう、夫はバイクを倒してしまった。

どんなに悔しいだろう…悲しいだろう…

私は駆け寄り、それを起こすのを手伝った。

「疲れているから…」

夫は無言でバイクに跨がって出掛けた。

帰った夫は「バイク屋に言ってきた」と…

たしか、それ以来乗っていないと思う。

バイク屋にも、辞めた方がいいと言われたそうだ。

だんだん力が入らなくなって来る…

それはどんなに恐ろしかっただろう…

そんな思い出があったから、バイクは早々に件のショップに引き取ってもらってしまった、夫の最後の愛車なのにと、少し経ってから後悔した。


f:id:kazanea:20211109154139j:image

昨日、ふと、思い出したのだ。

「荷物の様に」

我が家は最終決定は夫に任せていた。

それは夫の冷静な判断がいつも正しいと信じていたから。

私は彼との人生でも、『荷物』の様に乗っかっていただけだった。

夫がハンドルを握っていれば、どんな道でも大丈夫と思えた。

 

私は

ずっと…

あの、過酷で孤独に泣いた闘病の道でさえ、実は夫のリアシートに乗っかっていたのではないか…

自分がなんとかしなければ…

彼を傷付けるモノから護らなければ…と必死だった時さえ、私は夫の背に護られ続けたのではないか…と…

 

そして今も…

私の前にはハンドルを握る夫が居るのではないか…

見えなくても、しがみつけなくても…

そう思ったら、ありがたくて泣けた…

 

いつも、眠る時、以前夢で見た、エレベーターで上がって、座席に座る夫の姿を毎晩脳内再生している。

私は手招きされて隣の席に着くけど、そのあとどんなショーを観るのだろう…ちょっと想像がつかないなと思っていた。

そうだな、きっとこの後バイクに乗って出掛けるんだ…

あの頃から変わらず、今も、この先も、夫の背中が目の前にはあるのだ。

そう思ったら、とても安心できた。

ずっと、荷物のまま行くよ…

君の運転なら心配はしない。

そして、その時が来たら改めて、バイクで迎えに来てくれるんだよね?

荷物は楽しみに待ってるよ。

 

機能不全家族からの離脱

実家は、母の不機嫌が支配していた。

何か聞かれても、母の中の望ましい答えを選ばないと不機嫌になる。

面倒なので、なんでもいいと言うと、お前は自分の意志がないと責められた。


f:id:kazanea:20211108124846j:image

そのようなコミュニケーションに馴染んでいた私も、夫との生活で、無自覚に同じ不機嫌でコントロールしようとしていた。

先に怒った方が勝ち。

夫に「ちゃんと話せ」と言われて初めて、それがまともなコミュニケーションだと知った。

アサーティブについての本を読んだのもその頃で、自分の感覚、実家での普通が、歪んでいた事を自覚し始めた。

 

子どもが出来て、自分の育ちの歪さに立ち往生した。

ACと言う概念に出会って、まさしく自分の事だと自覚した。

 

子育ては血を吐く様な、身を切り刻む様な辛さだった。

「私がしたかったんじゃない!して欲しかったのに!どうしてこの子は当たり前に享受して、当たり前に要求するの?!私は貰えなかったのに!」と泣き喚く幼い自分をなだめながら…

それでも「搾取されてる」と言う怒りがこみ上げる…

我が子にそんな事を思う母親なんて、間違ってるし、私だけが異常なのだ…と言う思いが更に自分を追い詰めた。

 

運良く自助グループの立ち上げから、友に出逢え、夫の理解も得られ、なんとか嵐を乗り越えた。

f:id:kazanea:20211108125032j:image

私を救ってくれた2人はもう居ない。

今はその2人のお陰で育った息子が残った。

この子に、あと何をしてやれるかと考えれば、自分亡き後の諸々を引き継ぐ為の終活と、彼の負担にならない母として生き、悲しみを長引かせない逝き方を、と願う。

夫の遺伝子をこの世に残せて良かった…

出来ればもっと残れば良かったんだけど…

私には無理だから、他に作ってもいいよ、と夫に言った事もある、でもすぐ撤回した。

息子を悩ませる様な事態は招きたくないから。

 

自助グループに係わる内に、年若くしてAC自覚し、生きづらさと向き合っている人達がいる事を知った。

 

Twitterの中で、非出生主義と言う概念にも出会った。

 

私は子を持って初めて、どうにもならなくなって降参状態になったが、それまでも上手くいかない事はたくさんあって、それでもそれは私が不器用で未熟だからだと思っていた。

 

もし私が自分がACで、苦しみを繰り返して子を巻き込むかも知れないと知っていたら…

あの、うなじの毛が逆撫でられる様な泣きたい恐怖に慄きながら子どもを見守る未来を知っていたら…私は子を持つことを望んだだろうか…

そうであれば、結婚自体を望まなかったのではないか…

 

そこはDNAに感謝かも知れない。

私が愚鈍だったから本能に導かれて子を成した、それも極上の相手を捕まえられた。

モスキートとしては運が良かった。よくやった。

その代償が夫の命だったとしたら、私はその罪を背負って生きる…

 

この先、息子が家を出たいなら出ていいし、結婚したいならしたらいい、しない事を選んでも否定しない。

本人の幸せが大事。

その為の協力が必要ならばする。