Mosquitoes regret

喪失と自責の記

思い出形見

コッソリと置いて来た手紙と茶菓子、それに手前味噌のフォトブックが、無事にグリーフサポートの世話人の手に渡った様で、丁寧なお礼のメールを頂いた。



土曜と言う事もあり、そうかも知れないと思った通り多忙であった為、置き去りは感謝されたが、せっかくの来訪に息子と会えなかった事を惜しんでくれた。


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フォトブックは、去年8月の夫喪失から11月頃までの、俳句とも言えない五七五を写真に重ねたものを、形にしたくてアプリで作ったもの。


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https://sarah.official.ec/

 

元気な頃も、弱って私が支えながらも、歩いた近所の道を、一人歩くのが辛すぎて、ずっと頭の中で言葉をひねくり回しながら、涙を堪えて歩いた日々から、もう1年…

このフォトブックを作った後にもいくつか書き留めたものがあるが、今は悲しかった日々そのものが思い出になっている。

時が過ぎる。良くも悪くも。

そんな日々の形見としての1冊を、グリーフを手伝って下さった人に受け取ってもらいたい…そう思って、紙袋の中に入れて残した。

アプリに写真を入れただけだけど、褒めて頂けた。

不慣れで上手く出来てない部分もあるけど、その時の気持ちを形にしておいてよかった。

 

以前、四十九日に来てくれた夫の恩師に、近年会っていない夫の写真を渡したくて、小さな冊子にして贈った事もあった。


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https://www.n-pri.jp/

こちらはもっと以前、亡き友との思い出を辿った写真をまとめて冊子に作り、夫君に宛てて仏前に供えてもらった事も…

どちらもスマホの写真をアプリに入れ込んで行くだけで、私にもなんとか出来た。


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夫のミニ写真集は、夫の幼馴染みや二人の兄達にも贈った。

私はカバンに入れている。

写真はまだまだ見ると辛さの方が強いから、句集の方がまだましだ。

グリーフサポートして頂いた方から「気持ちが伝わる」と言ってもらえてホッとしている。

まとめた後に作った句も含めて、また作ろうかとも思うが、もうそんなに生まれなくなった。

きっと時期が過ぎたのだろう。

俳句は学校で習っただけだけれど、削ぎ落とされた言葉の中に凝縮されたものを想像するのがいいなと思って、自己流で季語もなかったりするが、ノートに書き留めたりしていたが、長らく忘れていた。

あの、一足毎に思い出して辛くなる日常の道を、かつての趣味が支えてくれた。

フォトブックも俳句も、アプリあってこそで私に才能があるとは思わないし、むしろ皆やったらいいと思う。

前記事のSUZURIのマグカップも、皆、自分の癒しになっている。

売ろうとしなくていいのだから、特別な品を自分用に作れるのはありがたい。


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この先も、折々に夫を想う徒然に、言葉に掴まえる事が出来たらいいな…と思う。

 

 

天地コラボレーション



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本人は苦手意識があって、多くは描いてないが、夫の描く絵は邪心がなく、技巧を追わず、とても魅力的だと私は思っている。

先日、捜し物をしていて、何枚か彼の線画が出て来て、とても嬉しかった。

思い付きでスマホでスキャンして、アプリで私が色を乗せてみた。

合作だ。

天国とのコラボ。

夫は嫌がるかもしれない…でも、私が欲しくてSUZURIというサイトで、その合作の絵でマグカップを作った。
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たまたまマグカップはセール中だったので、私と息子と夫用、弟夫婦にXmasプレゼントとして送り付けるのに2つ、予備1つ、計6つ注文した。

始めてだから、少し右過ぎるし、もっと図案は大きくても良かった。

でも、ちゃんとした品物が出来上がり、それを今、使って朝のコーヒーを飲んでいる。

手の中で、夫とのコラボカップを包み込む。

セールは終わってしまったが、味をしめてまた別の線画にも色を載せて、どうせ誰も買わないだろうけど、ひょっとしたら通りかかった人が見てくれるかも知れない…と思って、いくつかの商品を公開にした。

友人にLINEで見せたら、味があっていいと言ってくれた。

苦笑いしてる夫の顔が目に浮かぶ。

合作の、共同ペンネーム、古玻璃美亜(コハリミア)は、二人の思い出に因んだ架空の少女。日本人の祖母を持つ、南の島の女の子…と言うコンセプト、設定だ。
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二つ目の絵を塗り、もう一つ…これは水着姿の女性だったから、非公開にして自分用に。

その2点も手元に届いた。


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2人の思い出が形に出来て、1つから作ってもらえる…

もしかしたら、どこかの誰かに見てもらえる…

それは幸せな事だ。

夫が遺してくれた線画には限りがあるし、明らかな模写は使えない、それでも、色やレイアウト、デザインを変えて、もう暫く彼との合作を楽しめると思うと、これは夫からのクリスマスプレゼントなのだろうと思える。

ありがとう。


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クリスマスの季節、線画の中に雪だるまがあったので、慣れないアプリでなんとか文字入れもアレンジして、アップした。

こんな事がスマホだけで出来る、いい時代に生きてる…

 

もし気が向いたら、覗いて見て貰えたら私は嬉しいです、夫はどうかな?

 

 

想い出工房(kazanea)のオリジナルアイテム通販 ∞ SUZURI(スズリ) https://suzuri.jp/kazanea #suzuri
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引き継ぐ

前前記事と前記事の、グリーフワークサポートを受けた帰り道、いや、行きの道すがらも、沿道の空気や佇まいがとても好ましく感じられて、この道を息子にも教えてやりたいと思いながら歩いた。

所謂観光地だが、雨の平日午後だった事もあり、人の姿はまばらだった。



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面談を受け、目の前の人を信頼出来る、と自分の中に位置付け出来ると、この路の先のあの方に、我が子を繋げたいと言う気持ちが沸き起こった。

 

息子は特に困った事や悩みはないと私が聞いても面倒そうに返すだけだが、母親に辛さや悩みをこぼせる若者がそうは居ない事もわかっている。

夫が存命なら任せられた部分を、何処で賄うのか…

夫が信頼を寄せていた幼馴染みも、近所のボランティア仲間も、良い人で、困った時に頼めば力になってくれるだろう。

それでも、日常の中でぼんやりとした不安や不満が折り重なっていく漠然とした心の不調を吐き出せるかと言えば難しい…

夫や私を知っている人との関わりは、息子からしたら煩わしいものかも知れない。

今時の若者は、ネットで想像以上の情報に通じている、私のようなアナクロが心配する必要はないかも知れない…

それでも、私から、ひとつでも、信頼に足る相談先として、先のグリーフサポートを紹介して置きたい…その想いが固まって来た先週、紅葉を観に行かないかと言う軽い誘いに抵抗なく乗ってきたのを機と捉え、その場所までを同行させようと決意した。

話を聞いて貰いに行った事は話してあった。

そこまでの道の、趣きの面白さも本心からの言葉で語った。

当日は抵抗なく、一緒に会話しながら、沿道のレトロで素敵な店を興味深く覗きながら、楽しく迷いながら歩いた。

道々の紅葉も楽しみながら、その場所を示した。

中まで入り、本堂に手を合わせ、密かに用意してきた紙袋(グリーフの会宛のメモ付き)を受付の締まった窓の前の、人目に付く場所に置いて、声を掛けずに立ち去った。


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引き返す道で、私の気持ちを伝えた。

悩みや困り事の相談先のひとつとして、ここを君に繋げて置きたかった事、信頼出来る人だから、もし友人に困っている人がいたら教えてあげてね、と。

私もいつまても生きてはいない、ひとりになった君が頼れる人は、一人でも多い方が、私が安心なの。


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息子は黙って歩いた。

そんな未来を想像するのは辛い事だ、それはわかる。

だからせめて、そこへ到着する迄は、そんな母の真意は気取られたくなかった。

子の前では書けなくて、前夜遅くに便せんに向かって、過日の面談のお礼と、今日の行動について記した手紙と、渡しそびれたフォトブック『風葬記』、それに茶菓子を入れた袋をバッグの中に忍ばせて家を出た。

本当は、途中のデパートで菓子折りを買って行きたかったが、その時点で真意を隠す事が辛くなり、私は全部話してしまうだろう、そうしたら行きの道の気分は重たいものになってしまうだろう…出来ればそれは出来るだけその時だけに留めたかった。

家にあった廉価な袋菓子で申し訳なかったが、息子の心を優先させてもらった。

私はモスキートだから。


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帰り道は途中から来た道を逸れて、賑やかな観光客が増え出す道へ入って、久しぶりな場所にも行った。

紅葉も堪能出来て、良い一日になった。

私の思い付きからスムーズに事が運んで、和やかに帰路に付けたのも、みんな夫のおかげだと感じる。

夫が「それでいい」と頷いてくれているのだと信じる。

ありがとう。

贈り物

グリーフワークを対面でサポートして貰って、自分が縋り付くように自責に拠り所を求めていた事、それは自身の苦しさ辛さ、自分を醜いと、汚いと罵りたい、この穢れた自分が赦せない…と言う、全て『自分優先』から来ている事を指摘され、今はここでない場所に行った夫に対して、夫を思っての事ではない事を気付かされた。

 

夫がそれを望んでいるか…

私が罰される事を欲しているか…

いや、きっと彼は望まないだろうと分かっていながら、自分の気持ちを優先している…

たとえ神様が許さなくても、彼は許すだろう…


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罪の気持ち、自分を罰したい気持ちは消えない、それでもそれは私が死ぬまで抱えて行く事で、それを言い訳にして良いわけではない。

抱えたまま歩いて行くんだ…

抱えたままの自分を愛そう。

彼ならそうしてくれるはずだから…

 

そう思えたら、やっと、淋しさの涙が流れた。

サラサラと、嗚咽なく、ただ静かに後から後から流れ出て、自分でも驚いた。

そして安堵した。

 

自責と言う蓋で、これ以上血が流れてしまわないように、上から押さえて来たけれど、もしかして、その手を外して蓋を取ったら、何も無いがらんどうだったら…いや、もっとおぞましい真っ黒い化け物だったらどうしよう…そんな思いに慄いていた…

よかった…

ちゃんと悲しみがあってくれて…

もう、悲しい時、自分を責めて「ごめんなさい…私のせいで…」と自分にナイフを突き立てて、「どうして私が死ななかったのか…あなたの代わりに…」と斬り刻む事を辞めて、やっと…

やっと、「あなたが居なくて寂しいよ…」と泣ける…

やっと…「夫を救えなくて死なせた妻」から「夫を喪った妻」のスタート地点に立てた…

どう考えたって、夫は私が前者であるより後者である方を望むだろう。

それなら神様が許さなくても、私は夫が安らかな気持ちで居てくれる方を選ぼう。


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この淋しさは贈り物だ。

罰なんかではない、夫を想い、遠慮なく寂しがれる…この先も夫を愛して行ける…

そういう淋しさをやっと手に入れた…

抱き締めて行こう。

この淋しさは、かつてあったものが欠けた穴、埋まっていた穴がまた抜け落ちて、風が吹き抜ける音が身を切っても、かつて埋めていた人が居た、その幸せは消えない。

欠けても、存在は無くならない。

彼の不在を抱き締めて、淋しさに泣ける、私は幸せなのだ。

我執

我執は自分に対する執着で、仏教ではその克服が重要な課題とされる。 意識ある生きものを有情といい衆生というが、その主体として、恒常・不変の自我が実在すると考えて執着することを言う。すべての存在に実体があると考える「法執」と対をなしている。この二つはそれぞれ「人我見」・「法我見」ともいう。 ウィキペディア

 

縁あって1対1でグリーフワークしてもらって来た。

本来はグループでのワークが、このコロナ禍で休止中と聞き、再開を待つつもりだったが、希望もあり、個人的にも受け付けていると言う世話人の誘いに、用心深く躊躇しながらも、丁度瀬戸内寂聴さんが亡くなったニュースも重なり、これもご縁かと決心した。


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雨の予報だったが、丁度小止みになって、道に迷いながら訪ねた。

久しぶりに家族以外と長い時間を共にした。

世話人自身の過酷な来歴も聞く事が出来た。

私に、他の伴侶喪失者の様に「恋しい、触れたい…」と言う感情よりも、申し訳ないと言う自責が強い事に気が付いて、まず一人でとお誘いしたと言われて、やはり見抜かれていたと…

 

「ご主人様への対応を後悔されてるなら、今はご自分のことよりご主人様を楽にさせて差し上げることを一番にお考えになられてはいかがでしょう。」

そうメールで言葉を頂きながら、それは仏教的な『供養』を求められているのか…と、コロナ禍もあり、一般的でない葬儀や省いた法要を責められる様で怖かった。

話を頂いて、何度も「それはあなたが…御自分が…という事ね」と言われた。

 

はっ!とした。

そうか…

私は…自分の事ばかりだ…

自分が辛い、

自分が自分を許せない、

夫がそんな事を望まないのを分かっていたはずなのに…

自分が楽になる事を許せない、夫が許すと知っているにも関わらず…

自分が…自分が…

 

許せないと拘る自分をひとまず置く。

まず、自分ではなく夫を想う。

夫なら望んだ事を、して行く。

まずは鬱を良くする事。

少し元気になったら、出来る事から、夫がしたかっただろう事を…
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たくさん話を聞いてもらった。

自覚出来ていなかった、戦友との死別の大きさを「いいじゃない、夫婦なんていろいろな形があるもの」と許された事も大きかった。

そうだ、私は戦友が逝ってしまって大きく傷付き、夫に「死にたい」と何度も言ってしまった事を悔やんでいると、それが夫を病にさせたと…そう自分を責めていると言っていたが、実は、戦友を喪った事でこんなにも傷付いてしまった、その事自体を申し訳なく思っていたのだ…

その事に向き合えなかったのだ…

夫は目の前で旅立った。

蘇生を試みなかった。

その先に、希望が無い事を知っていたから。

 

それでいい…

そう、誰かに肯定されたかった。

 

きっと少し進めた。

自責は一人遊び。

夫が安心出来るように生きる。

 

『我執』と言う言葉が浮かんだから、ググってみたが、難しい…

自分と言うものは、全ての実体は、そこに無い…

それなら、何も変わらない?

夫は身体を失ったけど、ここに居る、そう思っていいんだよね?

 

 

 

 

 

ユマニスム

夫との死別以前、父を施設に一人置いて、生きる事、死ぬ事、介護と言う事について夢遊するように頼り縋れる何かを探して彷徨って、本を読み、話を聞き、心に残りながら確かには理解する事が出来ずに今日まで来た言葉の1つが「ユマニチュード」だった。

昨日もTwitterでその事をコメントした。

そして今日、読み始めた『恢復する家族』の中で、正しくその言葉と出会った。


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「ジャスト・ミート」とタイトルされた20ページの中で、「ユマニスム」「ユマニスト」と言う言葉が現れた。

これが、大江健三郎氏言う所の「ジャスト・ミート」、私たちACが使う「シンクロニシティ」と同じ意味と思ってもいいのだろうか…「なにものか人間を超えた存在が、われわれ人間をつうじて」現される偶然。

ユマニスムを検索して、ヒューマニズムの語源となった言葉だと知り、やっと腑に落ちた。

「絶望しすぎず、希望をもちすぎず」人々の苦しみに対処する…それは仏教で言う「中道」にも似てるのか?

理想や悲観に振り切らず、目の前の生の人間に誠実に向き合う…と言う解釈でいいのだろうか…?


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夫との闘病は、絶望と奇跡を信じたい気持ち、その両方に揺すぶられ、時に楽観し今も後悔が残っている。

そう言う自分を俯瞰して、自覚的にその道を歩けたなら、こんなにも自責に苛まれなかったのだろうか?

とても難しそう…だが、それが出来たら…

心に留め置いて行こう。

今、私がこの本を読んでいる事が「ジャスト・ミート」であるなら、この先にも正しく繋げて、行くべき場所に辿り着きたい。

『恢復する家族』

今朝から読み始めた、かつて朗読した本が、溢れる程いろんな気付きや新たな思索の種を与えてくれていて、身体の内側がまだ震えている。



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最初の『つらいかた』20ページ程を読んだだけで、ああ…当時の私の中に入りようが無かっただろうな…あの頃、私は文中の御子息、光さんに近い年齢だった(同い年だが、刊行までのラグがある)今は私の息子が光さんに近い年齢だ。

と言う事は、今の私はあの頃の大江健三郎氏と同じ位と言う事…

wikiに飛んで、来歴を読んで来た。

今はスマホでこうやって、気になった時に家に居乍らにして情報が手に入る、有難い時代だ。

やはり、大江氏は父母の年代だった。

地方の9人兄弟の真ん中辺りというのも父母と大差ないが、浪人して東大に入るのだから生きて来た世界はまるで違うだろう。

 

たくさん考える課題を貰った。

この一冊を取り敢えず読んでしまおうと思っていたが、どうやら考えながら、噛み砕いて消化しながら、栄養として取り込みながら、焦らず、その事を私の今の宛のない生活の柱にした方が良さそうだと感じる。

 

他にも読んでみたいと思える本も出て来た。

同時代ゲーム

『洪水はわが魂におよび』

『燃えあがる緑の木』

下2作は長編の様だ。まず、今の本を読んでから。

 

来歴で、自分の中に火種として残っている罪悪感の、最大のもの、私は夫の死を願ったのかと言う自問を、大江氏もまた自らの中に持った事を知り、その暗闇と対面した人の言葉が聞きたいと思えた。



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朗読ボランティアをしていた頃の私、これからの夫との生活を前向きにがんばろうと生きていた私には、この本の何某かも浸透しなかったと思う。

最初の一辺からして、老衰してゆく身内への眼差し、考察、「つらい」と言う感覚、全て今だから深く沁みている。

この本を既に知っていて、朗読に選んだAさんは、どんな想いでボランティアに託したのだろう…

身体の動かない自身の「つらさ」が今になって伝わって来る。

 

これは時を超えた贈り物なのだ。

夫を同じように自由を蝕む病に侵され、喪った私への、過去からの贈り物だった。

 

まだ探し出せていない、当時のやり取りの手紙、もし見つかったなら、お礼の手紙を書きたい。

そのように、日々を少しづつでいいから目的を持って、其処を目指して進んで行けたらいいと思う。