もうすぐ三回忌
丸2年、毎日さいごの刻を何度も脳内再生するから、つい昨日のようでもあり、2年…と聞くとまだそんなか、と思う程遠い昔のようにも感じる不思議…
時間が、時空が、あの日捻れたままただ流されてここに居る…
訳がわからない…
意味がわからない…
今もわからない…
半年後に繋がった精神科、その後対面で喪失の苦しみを話したお寺さんから始まったグリーフの旅、Twitterの仲間…もがき、あがき、私はとりあえず生きている。
苦しみの沼にはまったまま、私はどうしたいと思ってあがいたのか…その結果どうなったのか…この2年を振り返り、その変遷と今居る場所を確かめたい…
次の精神科受診を目安に振り返りをまとめたいと思い、ノートを買ってきた。
死別の日にちだけ書き込んで進まない…
このブログも改めて読み返した、納骨してからなのでそれ以前は余り記録がない…
Twitterもはじめからは遡れない、シンドイ時は日記も余り書けていない…
しなければ…と思うと尻込みしたくなるへっぴり腰…まずはここ最近をブログに書こう、と逃げている。
暑中見舞いに夫と合作のポストカードを同封して、知って貰いたい人たちに送った。
夫の学生時代からの友人には、無理を承知で、昔撮影した自主制作映画のコピーをお願いしてみた。
夫の為に出来る事を探す…それは実は自分の為…
自責も自分がしたくてやってる事、それとバランスを取るように、夫が喜んでくれそうな事をする…
むしろ後者の方が痛い…
自責は簡単だ、だから本当の意味での贖いを、ずっと探して行く。
猫好きさんは読まないで下さい
暑くなり始めた頃だったろうか…時々猫の声を聞いた。
ご近所で飼われていた猫は数年前死んだと聞いた。
この辺りでは猫は嫌われる傾向があって、あからさまに猫に敵意を示す若いお母さんに、動物なんでも好きな私は「そういう人も居るんだ…」と意外だった。
そんな猫嫌いに追い払われた野良猫だろうか…?
雨の夜も声を聞く…
ビックリする程心が乱れない。
子ども時代、猫を拾って来て怒られた。
それでも2回、実家で拾い猫と暮らした。
最後に居た白猫が死んだ時は、一緒に死んでしまいたいと思う程だった。
それ以後も猫や犬を愛でたい欲求は強く、それ以上に捨てられている猫の声に心を乱し、居ても立っても居られない感覚に支配された。
救わなければ…その焦燥感は投影だったと今は理解してる。
子を育ててACの問題と対峙して学んだ、あの鳴いてる猫の声は自分の様に感じて、放って置く事がどうにも辛いのだ。
「助けて、愛して」と泣いてるのは自分だった。
子育て中、もし子が猫を拾ってきて「かわいそう…飼いたい」と言って来たらどうしよう…
不安でいっぱいだったが、遂に一度もそんな事はなかった。
夫はアトピーで子も小児喘息になるかも…と言う体質で、私は飼うのは諦めたが、夫も子も小動物に取り立てて関心がない様子だった。
父が飼っていた柴犬の懐っこさにもどう対処していいか困惑する感じ。
子は小さい頃猫に引っ掻かれた経験からやや苦手かも知れない…
おかげて過剰に「かわいそう」と言う感情に晒されずにここまで来られた。
窓の外から聞こえてくる鳴き声に、少し胸は痛むけれど、「ここで鳴かずに何処かに行け!」と追い払わずに、だけど私にしてあげられる事はないよ、と境界を引くことが出来た。
私にもっと強い慈悲の心があれば、保護して避妊手術をして飼い主を探すなり保護団体に頼むなり、するのかも知れない。
私にはわからないのだ。
人間が人間の暮らしやすさの為に、動物に避妊手術をすることが、今も傲慢に思えてしまう…
それに、私は夫を救えなかった妻だ。
それなのに、他の何者も救えるとは思えない…言い訳かも知れないが、私にはその資格はないと思う。
軒先から「うるさい!」と追い立てはしない、けど、食べ物もあげない…
お遍路さんへの御接待に、「ウチの軒先で死んでくれるな(縁起が悪い、面倒だ)死ぬならヨソの家の軒先で…」と言う意味合いもあった、と何かの本で読んで、人間臭くて全くの善意と言われるよりほっとした。
私は御接待はしない。
うちの敷地で死んでもいい、その時は、せめて埋めてあげよう…それくらいしか出来ない…
草遍路
隣家と境界線を接する狭い庭の一画が、思いがけず生い茂っているのに気が付き、昨日の朝イチで刈り込み作業をした。
中途覚醒は早朝覚醒になって、最近はもう明るくて二度寝も難しい…それなら隣人が動き出す前、日差しがキツくなる前に作業すればいいのでは…?
その思い付きを昨日実行した。
その狭いエリアは、前回草取りしたタイミングで防草シートを敷き詰めた。確か、夫を亡くした後。なので、草はそんなに生えていない。
出窓の下に、鳥が運んだらしい見知らぬ木が育ち、丁度日陰を作ってくれるのだが、それが繁り過ぎ、隣家の敷地に大きくはみ出すようになった。
台風の時は家の壁を叩くし、網戸を壊しそうなので、昨年やむなく根元近くから斬った。
腕位の太さだったが、夫が買った小型の折り畳み式鋸で斬ることが出来た。
私は安物買いの銭失いの典型で、なかなか高価な物に手が出ないが、夫は求める能力に見合う対価は支払う主義だったので、この鋸も軽くて使いやすく重宝してる。きっと高かったのだろうが、夫の見立てのおかげで今でも助かっている事が、他にも沢山ある。本当にありがとう。
木は流石にボリュームがあって、切り倒したはいいが、処分する為に分断する余力が、その時点で残っていなかった。
とりあえず、隣家にはみ出ない形にまで成形して、そのままその場へ寝かせて置いた。枯れて痩せてからなんとかしよう…と一旦保留にしたままで置いた。
気が付いたら、そのひこばえが元の高さ位まで伸び、再び生い茂っていた。
狭い場所に前回切り倒して放置していた主幹が、枯れつつシッカリ寝そべり行く手を阻む…まず手前の枯れ木を分解しながら、今回の目標までの道を拓かなくてはならない…
ふと、「草遍路」と言う言葉が浮かんだ。
花鋏と鋸でゴミ袋に入るサイズに分断して進みながら
「死した親が、屍になりながらも悪鬼から我が子を守らんと、立ちはだかっている…」
そんな風に思えた。
悪鬼は慈悲の心を押し殺して若いひこばえを刈り込んだ。
遍路とは程遠い旅だ…
ゴメンね…
それでも、夫がいつも気にしていた「近隣への迷惑」を排除する事が、夫への誠意だと思うから遂行出来て嬉しかった。
私自身は、草木のはみ出しくらいお互い様だし、気にしない質だが、仕事で人様の庭先を通る事が多かった夫は、他者への配慮に敏感だった、心を砕いていた。
その、他者への配慮に敏感な夫が、他者からの支援無しには生きていけない病に侵された。ALSは現在有効な治療法のない難病。
少しずつ自由を奪われ続けて回復しない。
その切なさを表現しなくても、きっと夫の中にも葛藤と嵐はあったのではないか…
介護ベッドに新しいエアマットを導入するに当たって、夫に一旦車イスに座っていて貰った。レンタルしたが夫は頑なに嫌がって、結局この時座っただけで、一度も利用する事なく返却した車イス…
あの時の、寂しそうな後ろ姿を今でも涙で思い浮かべる。
あの時も、あの時も、抱きしめて大丈夫だよって笑えば良かった…泣きながらでも笑えば良かった…
何度も思い返すからそう思えるんであって、あの時の私には、その時点での苦悩とその先の不安でいっぱいで、そこまでの余力が無かった事も承知している。
その時、何をしていても、最善を尽したと思えないだろう。後悔しても戻せないし、本人も望まないとしても…後悔は、多分私がしたくてしてるのだ。
それが供養になるとは全く思ってない。
この先で役に立つとも思ってない。
ただ、あの辛かった一瞬を何度も追体験して、夫の悲しみに近付きたいだけ…
まだまだ解っていないと自覚するから…
枝切りした日はとある寺を訪ねる計画を立てていた。
そこには地下に仏像が並んでいて、四国八十八ヶ所の札所を巡礼したのと同じ功徳が得られるとの話。
夫を喪って、遍路に出る名目は得られたが、行楽のように遍路旅に出る事には後ろめたさがある、本当に供養になると信じてもいないのに、自分を慰める為にする如何なる行為もすべきでないと思う自分がいる。
第一、そんなエネルギーがない。
その寺は、たまたまEND展で訪れた駅の近くにあるのだと、人から教えて貰った。
END展ももう一度見たいなと言う気持ちもあり、教えて貰った縁も含めて導きかな?と思った。
だか、体調もイマイチ、天気も怪しい…
それで予定を変更して、草刈りをしたのだが、四国八十八ヶ所巡るより、こうして草刈りした方が、夫は喜ぶ事が確信出来た。
夫が喜ぶ顔を思い浮かべながらの作業は、大変でもやり甲斐があった。一段落して清々しい気分にもなれた。
キチンとは出来ていないが、ソコは私の能力不足なので我慢してもらおう。
こうやって、夫の笑顔を思い起こせる事を、少しずつでも探してやっていこう。
それが供養という物になるかどうかは解らない、が、私の生きる甲斐、糧になる事は確かなので。
草遍路とは、野宿で遍路を続ける事、人を指す言葉だそうだ。
ドラマ『花へんろ』から連想した言葉だが、俗を捨て草をかき分け、信仰に近付こうとつとめる者を、他者は聖と呼んだり乞食と呼んだりして、畏れ、恐れる。
『花へんろ』の作者、早坂暁は、私の父の死の翌月急逝されていた。
エッセイ『この世の景色』を昨日注文した。
愛するとは…ルー・ゲーリック・デーに寄せて
「愛にはエロス、アガペー、あとなんだっけ?3つあるのよ、尊敬はアガペーだから、それは愛よ」
私は夫の事を、全人類で1番尊敬してる、けど、触れない抱きしめられなくて寂しい悲しい…と言う感情は、他の伴侶喪失者よりも弱いと思う、それはグリーフサポートしてもらった人にも言われた。
夫への情が薄いのだろう…申し訳ない…
子育て期も、この子という鏡に乱反射されて自身をズタズタに切り裂く刃が、果たして愛なのか…なんなのか…わからずに泣き明かした。
愛にはいくつもの形がある。
そんな事、何処かで見聞きした事はあるかも知れない、けれど、必要な時に、信頼出来る人から手渡されて初めて自分の中に結実するものなのだな…
その言葉が私を救ってくれた。
私の想いも愛なのだ。
同じ病で同じく伴侶を看取った彼女が、私と近い自責の種を告白してくれた。
その事が彼女をこれ以上苦しめる事が無いように祈る…
私も、タイムラインに流れて来たツイートにパニックを引き起こされた自責の種がある。
けれど、話をして、目の前の信頼出来る人に受け止めて貰う、そして口から出たその自らの懺悔を自分の耳で聞く事で、その罪の、自分の中の置き場所が変わった気がする。
なくなりはしない。自分を戒める為に、光を鋭く跳ね返す場所に置いていたけど、もう少し柔らかな自然光の仄かに射す、穏やかな場所に移動させる事が出来た気がする…
代わりに今、私の心を射るのは「夫が、泣きかけたあの時、泣かせて一緒に泣けなかった」後悔…
夫は理性的な人だった。
父親の死にも、母親の病にも、乱れる事はなかった。
乱されっぱなしな私からは偉大に思えたが、実は本人は「感情が動かない事を後ろめたく思う事もある、泣ける人は泣いてあげるのがいいと思うが、オレはそうじゃないから、別の所で別の形で力になってあげたい」と言っていた。
その、理性的で感情に流されない性分を、息子がちゃんと引き継いだ事を、皮肉な事に、病の告知の直後に実感した。
「泣けなくて申し訳ないんだけど…」
帰りの電車の中、泣いてる私に隣の息子が言った。
人生のどん底で、人生で最高の瞬間に出会った。
謝らないで。その性質はお父さんからのもので、私はとても素晴らしいものだと思う。お父さんと一緒で嬉しい。そんなような事を言ったと思う。
本当に嬉しくて、この事を夫に教えてあげなきゃ…私は舞い上がっていたのだろう、翌日病室に少しだけ入れた時に、私は夫の心を思いやる事を忘れていた。
この人が、昨日、治療法のない死に至る病だと、告知された本人だという事を思いやれなかった。
「昨日、あの場に息子も居たでしょ…?可哀そうだったよね…」そう前置きのつもりで言った時、夫か思いがけず顔を歪めたのだ。
泣きそう…?
初めての事だった。
私の前でそんな表情をするのは。
私は動転してしまった。
受け止めてる準備が全くなかった。
だから…コロナ禍で長居が出来ないのを言い訳に、畳み掛けるように昨夜の息子の様子、息子は大丈夫だと、あなたと同じだからと…被せてしまった…
あそこで、泣かせてあげればよかった…
そして私も一緒に泣けば…何か、言葉じゃない何かを伝えるチャンスだったのた、最後の…
その後、夫は一切乱れる事はなかった。最期まで。
やり直せるなら、あの一瞬をやり直したい。
結果が変わらなくても…彼の悲しみを受け取るチャンスを、私はドブに捨てた…弱すぎる…
詫びたい事はたくさんある…
でも、私が楽になる為にならそれは叶わなくていい、寂しさ悲しさ悔しさ…それらと一緒に持っていく。
傷は傷のまま、いつか乾いて傷跡となっても、いつまでも痛む古傷であって欲しい。
忘れたり、治ったりしないで…
そのまま、罪人のまま、歩いて行けますように…
END展と友との邂逅
END展に行って来ました。
五十嵐大介さんの生カラー原稿を間近でマジマジ見る事が出来て至福でした…
私は歪な死別者なので、傷付くかも知れなくても、近付いて見たい、知りたい、考えたい人です。
そうでない人にはオススメしません。
私は行って良かった…可能ならもう一度行きたい、近くにあると教えて貰った、玉川大師の地下仏像も見てみたい…
会期中に行けるか微妙ですが…
https://hiraql.tokyu-laviere.co.jp/end-exhibition/
先々月末位から、少し動き始めました。
死別者の集まりに、勇気を出して参加。
私の背を押したのは、夫の残したラクガキに私が色を乗せて作った合作グッズ、そのポストカードを受け取って貰えるかも!と言う不純な(?)動機でした。
初めて会う得体の知れない者の、無名作家によるポストカードを、皆さん喜んで受け取ってくれました。
こんなに嬉しいとは…!
力を得て、家庭用プリンタで刷り出したポストカードを持って、出掛けられるチャンスを探す様に…
100均で白紙のカードとセロファンの袋を買い、プリンタのインクも買い足し、新たな図案にも着手…今はこの、夫との天地コラボ絵が私の楽しみ、1番の生き甲斐となっている。
調子に乗って出て行った先で、思わぬ地雷を踏み玉砕する事もあった…だから、慎重に、でもほんの少し勇気を出して、傷付いて泣くまでをセットで覚悟して…歩いて行きたい。
つい先日は、約2年程、夫の旅立ち前から支えてくれた大恩人に、初めて会って話す事が出来た。
同じ病に伴侶を連れ去られた、少し先ゆく同士の彼女の存在が、どんなに私の希望の灯となった事か…
この道の少し先を照らして、大丈夫だよと差し伸べてくれた手があったから、私はあの過酷な日々を這いずりながらここまで来られた。
本当にありがとう…
会ったら号泣してしまう…と心配したけど、ポロリくらいでなんとか収まった。
同世代でビックリする程趣味も近くて、昔からの知り合いのように、あっという間に時間が過ぎてしまった…
こんな出会いも、夫がくれたギフトなんだな…と、感謝する。
また会いましょうね、と別れた。
彼女の生き様が、私の未来の中の可能性の1つ、選択肢の1つとしてある、とても励まされた。
私も、自分可哀そう…から、ソチラへシフトしたい…
無理はしない、まだ病人だ、でも向きを変えて、歩き出す準備はしたらいいと思う。
今月、新たな動きも試す。
前述の死別者の集いとは別に、少人数で集まる企画が立ち上がった。
準備の話し合いの場に、私は、以前戦友と10年続けた自助グループの資料を持って行った。
厳密には、『その場に置いて帰る』アノニマス(匿名)での自助ミーティング、外部に出すのはNGかも知れない…けど、グループは閉じてもう10年?その頃繋がった当事者も、そろそろその問題の現役から卒業してるだろう…
何より、この資料を私に託した戦友は、生きていればきっと…許可してくれたと思う。
彼女が推敲を重ね、厳選した言葉を、新たな仲間が「大切だと思う」と写メしてくれた。
戦友が心を尽した文言、その気持ち、大雑把で無神経な私は、その細やかな配慮の意味を本当には理解してなかったと思う。
繋がった人をなるべく傷付けないように…
その心尽くしを、別の場所で活かせたら、戦友も喜んでくれるだろうか…
まだ墓参りにも行けていない…
その時には、いい報告が出来たらいいな…
海の幽霊
米津玄師『STRAY SHEEP』には、気になっていながらまだ観ていなかった劇場版アニメ『海獣の子供』のテーマ曲『海の幽霊』も収録されていた。
原作の漫画の作者、五十嵐大介さんは大好きな作家さんだ。
夫と半同棲になった頃、夫が定期的に買っていた雑誌に『はなしっぱなし』と言う不思議な読切りを連載していて、その特出した感性と画力に魅了された。コミックスも2巻までは買った。
夫は当時のその雑誌を高く評価していた。
他誌では見ない、挑戦的で実験的な作品が載っていたからだが、やがて編集長が変わり、誌風もガラリと…普通な感じになってしまった。ブツ切られた連載への言及もなく、夫はガッカリして愛想をつかし、購読をやめてしまったので、五十嵐さんのその後を長く知らなかった。
『海獣の子供』は、初めての長編連載と言うウワサは聞いていた。
本屋で単行本を手に取った事もあった。
でもその頃の私には、気持ちに余裕がなかった。
第一巻が出版されたのが2007年8月4日…
丁度私が入院していた時期だ。
胆嚢炎からの腸閉塞で七転八倒して近所の病院に11日間入院、胆嚢の他に子宮筋腫も大きくなっているから取ったほうが良いと言われて、帝王切開から筋腫を診てもらっていた大学病院に、手術の前の検査中に体調悪化し、緊急入院となった。7月、息子の夏休み初日。
検査でアチコチ歩き回るうちに、どんどんしんどくなって、待合いで「こんなに人が居て、ドアの向こうには医師も看護師も居るのに、こうやって死ぬのかなぁ…」とボンヤリ思った頃、採血結果を持って医師が来た。
何かの数値がとても良くないから、すぐ入院と言われ、その場から車椅子に乗せられた。
何も持って来ていないから、夫に伝えて持ってきてもらった。
まだ手術日も決まってないのに…
途中で絶対安静にもなって、激痛にも耐えた。
「死んじゃうかも」と言う書類に何枚もサインして、検査や治療にストレッチャーで移動、痛みで弱気になってる所に夫はなかなか仕事で来られない、息子は両家の実家を頼ったり義母に家に来てもらったり、でも小学生は病室に入れない、自分も淋しいが息子が心配で泣いた…
手術日が決まり、途中退院も外出も出来ないまま、33日間の入院となった。
思い返したら、私も検査中に体調を崩しての緊急入院だったんだな…病院も同じ…
「死んじゃうのかな〜…」とボンヤリ思ったけど、リアリティなくて怖いとは感じなかった。
帝王切開の後の子宮筋腫の定期検査で、細胞の変異?があると…コレが癌化する可能性もあるからと、追跡検査になった。
その時は子どもを生んだばかりで「死にたくない」と強く願った。
せめて小学校にあがる姿が…いや、成人する姿まで見たいと祈った。
それから十年後、その子宮を丸ごと取る事になり、子を与えてくれた子宮ともお別れ…
子は10才になった。もう私が居なくても大丈夫かも知れない…
もしかして、夫は私の延命を祈ったのだろうか…?
自分の寿命をあの時、私に与えてしまったのか?
もしそうなら、私は貰った夫の命を無駄に捨ててはダメなはず…
最後の第5巻は2012年8月4日に出ている。
震災の翌年。
その経験から、夫はPTA、市、地域に働き掛け、防災講演会を実現させた。
息子に残したい父としての晴れ姿だった。
その講演会が2012年冬、丁度息子は高校受験のタイミングであまり熱心な聴衆ではなかった。私も受験シーズンなのに…と、やや迷惑位に思ってた。
その、晴れ舞台の記録を昨日やっと過去ログの中に探し出せた。
当時の自分の態度の申し訳無さ、夫が大切に思っていた事の記録を、ちゃんと保存していないと言う情けなさが、やっと少し救済出来てほっとしている。
米津玄師『STRAY SHEEP』を聴いて思い出して、原作を読んでからレンタルで映画を観た。
映画公開が2019年6月…
共に子育ての荒海を支え合った友はその年の5月に癌で逝った…
精神的にドン底だと思った、翌年夫を喪ってその底も抜けた…
だから、本当に知らなかった。
あの水族館が舞台だと。
あの海だったと。
当時はコラボもされたようだが、全く入ってこなかった。
主人公の名前が『るか(琉花)』なのも知らなかった。
この話が、生命を巡る大きな話である事、このタイミングでやって来た事、全部夫からのメッセージだと思っている。
迷える子羊
蚊ですが…
米津玄師さんのアルバム『STRAY SHEEP』が生協で取り扱われたので買ったのはいつだったろう。
発売日を見たら、夫の葬儀の日だった。
『lemon』は戦友を喪った時、
『パプリカ』は夫と聴いた思い出、
他にも、疎い私でも耳にした事のある曲の入ったアルバムだけど、買って1年以上聴く気になれなくて、封も切らないまま放って置いた。
これだけじゃなく、全てのCDをかける気になれない…
全ての、自分を楽しませる事が許せない。
鬱のせいもあって、本は読めない。
ゲームも面倒…
あんなに毎晩飲んだお酒も、飲んでも酔えなくなってやめた。
お酒飲んで、CDかけて、それで逃げていた、逃げ切れた現実は終わった。
どうして聴いてみようと思ったのか思い出せない。
初っ端の『カムパネルラ』でビンタされた気がした。
カムパネルラ…それはもしかして…?
ググってインタビュー記事を読んで、やはり『銀河鉄道の夜』のカムパネルラだった…
しかも、歌っているのはザネリだと、米津さんは語っていた。
なんて事…
一気に時間が巻き戻る。
夫と付き合いだした頃、私は文芸系の同人誌に短編漫画を描いていた。
それを彼にも見てもらった。
タイトルは『銀河鉄道の頃』、『銀河鉄道の夜』へのオマージュで、これは偶然だが、作中のカムパネルラに当たる人物の名前が、彼の名と音が一緒だった。
元々好きな名前だったと伝えると、彼は嬉しそうにしてくれた。
私のオマージュも、米津さんと同じくザネリへの感情移入から生まれた。
友が自分を助けて死ぬ…
そんな出来事の後、ザネリは大丈夫なのか?
どうやって生き、どう折り合いをつけていったのか…
心配で仕方なかった。
彼は、拙い漫画を褒めてくれた。
そこまでが今に繋がった。
カムパネルラは早逝する。友を助けて。
夫はカムパネルラだった。
私はザネリ。
私が殺した。死を予言した。
意味のない思い込みだ。わかってる。
善良で、社会の役に立つ人間だった夫を連れ去り、その夫に寄生し、役に立たない粗悪な私が残された…理不尽だ…
私も、風に煽られ、汚れた手のまま生きていくのだろう…終わる日まで。
もう探し出せないだろうと思った当時の漫画が、イラストサイトでサルベージ出来た…
もう30年も前の、拙いものだけど、戒めとして載せておく。